私たちが、どれほどの思いで、福祉や権利擁護に従事したとしても、戦争になったらそんなことはあっと言う間に吹っ飛んでしまいます。

私の県庁での初めての仕事は、援護の仕事でした。援護の仕事とは、戦傷病者、戦没者の遺族に対する援護の仕事のことです。
それは、1997年、平成9年のことなので、27年も前のことになります。
この、援護の仕事を従事したことで、戦争は決してあってはならないものと思うようになりました。

戦争が終わったのが1945年なので、戦後52年経っていたのですが、戦死された方の配偶者(妻)は、まだご存命のころでした。
他県で中部地区の遺族会の大会があり、遺族会も担当していたので、出張したのだと思います。記憶が定かでないのですが、遺族会の役員の方だったか、戦没者の妻の方にお会いしたときに、戦死された夫の写真を前に、「あんたはずるい、いつまでも若いままで、私は、こんなにおばあさんになってしまったわ」とおっしゃったのが、印象に残っています。

全国戦没者追悼式にも、一度だけ遺族の方の随行で参列したことがあります。

いまでも、「戦没者等の遺族に対する特別弔慰金」という制度があります。
この特別弔慰金は、「今日の日本の平和と繁栄の礎となった戦没者等の尊い犠牲に思いをいたし、国として改めて弔慰の意を表すため、戦没者等のご遺族に支給するもの」として、戦没者の妻や父母のおられない遺族(子、兄弟姉妹等)に、5年償還の25万円の国債が支給される制度です。
当時の主な仕事は、この戦没者等の遺族に対する特別弔慰金の申請書類が、市町村を通じて県庁に届けられるのですが、膨大な申請書をひとつひとつ精査して、支給要件に合致するかを審査することでした。
当然、戦死された方の遺族でなければならないので、戦没者の記録にあたるわけですが、課内におかれたマイクロフィルムに記録がなければ、公文書館にしまわれた古い戸籍をあたることになります。
かび臭いその部屋に入るとものすごく気持ちが重くなり、肩も重くなりました。

戦没の記録に、「病死」とある場合もありましたが、「病死」の多くは餓死だよと先輩に聞いたことがありますが、真偽のほどはわかりません。
戦死は、20代の若い人が多く、これも、若者が鉄砲の弾の飛んでくる前の方にいかされたからだとか聞きましたが、前の方でも後の方でもいっしょのような気もします。
グアム島やサイパンなど、若い人が観光で訪れることも多かった頃も、私には、戦没者の遺骨収集の地としか思えませんでした。

私は、1957年生まれで、1945年に終わった戦争のことを知りません。
母は田舎育ちで、疎開してきた父と結婚し、私たち兄弟が生まれたのですが、戦争の話はほとんど聞いていないです。話したくもなかったのかもしれません。

戦争のことは知らないですが、戦争になれば福祉だの権利擁護だのは、戦車やミサイルの前に霧散してしまうことは容易に想像ができます。

福祉に携わる者は、憲法第25条の生存権と第13条の幸福追求権は必修だと思っていますが、前文、第9条の平和主義についてもしっかり学ぶ必要があると思います。

ウクライナ兵もロシア兵も、ウクライナの市民も、誰ひとり戦争で亡くなることがないよう願います。